来週の木曜日から、プリムのお祝いが始まります!
2021年のプリム祭は、2月25日(木)の日没から、26日(金)の夕方まで。
プリムの日にお祝いするのは、古代ペルシャ帝国に住んでいたユダヤ人たちが、「若い者も年寄りも、子どもも女も、すべてのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼす」というハマンの陰謀から救われたことです。(エステル記9:20-22)
プリムは楽しいお祭りで、老若男女に愛されています。
子どもたちがエステルやモルデカイやハマンの格好をして劇を演じたり、ハマンの帽子もしくは耳を模した「ハマンタッシェン」というフルーツ入りクッキー食べたりします(ぜひ美味しいレシピをお探しください!)。
またプリムは、神に対する再検討へと招くお祭りです。あまりにも長い間エステル記は、聖書の中ではあまり霊的ではない書物だとか、もっとひどい場合には不潔な書物だと誤解されてきました。マルティン・ルターの次の言葉は悪名高いものです。「私はこの書(マカベア記)とエステル記に敵意を持っており、これらの書が存在しなくなることを願いさえする。なぜなら、これらはあまりにもユダヤ的であり、非常に異教的で不適切だからだ。」
さらに一部の人たちは、この書の内容を中傷するだけでなく、この書の信憑性をも非難し、エステル記は神話や作り話にすぎないとさえ主張してきました。しかし近年では、エステル記の信憑性に対するこのような攻撃は弱まっており、むしろ学者たちはこの物語の全体的な正当性や史実性を再び主張するようになっています。
その他にも、民族的な誇りや尊大さを理由として挙げて、プリムを批判する人たちがいます。ただしこれらの主張は、大量虐殺を計画するハマンを出し抜いたエステルとモルデカイは、勇敢さよりもむしろ狡猾さを露呈しているのだという、偽りの信念に基づいています。残念ながら、エステル記やプリム祭に対する多くの反対意見は、反ユダヤ主義的な感情と結びついていることが多いのです。実際に多くの教会ではエステル記を完全に避けてしまっており、「エステル記には”神”という言葉が出てこないから、宗教的な意味合いは無いはずだ」などと説明されることもあります。
しかし、それより多くの教会ではむしろ、エステル記に”神”という名前が出てこない理由は、「歴史的な出来事はいつでも隠れた神の善き計らいによって動かされているのだ」ということを示すためなのだと考えられています。エステルやモルデカイが経験した出来事について、またさらには、歴史的にユダヤ人たちが保護されてきたことについて、たとえ”神”について言及されていなかったとしても、神こそが主役であり、中心である、ということです。エステル記が私たちに伝えているのは、”神の手”が存在しないように思えてしまう時にも、私たちの人生のあらゆる事柄は神の計画の中にあるのだ、ということなのです。
エステルと同じように私たちも、”神の愛の光”となるべくして、特別な状況において(「この時のため」に!)置かれているのかもしれません。
だから私は、聖書の祭日であるプリムを祝うのです。そしてあなたにもぜひ、もしも困難な状況にあったとしても、主はいつもあなたと共におられるということ、そして主の御手と救いをあなたは見ることができるのだ、ということを思い出しつつ、この素晴らしい日をお祝いしていただきたいのです。
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