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  • Writer's picture ダビッド トゥルーベック

なぜ神はイスラエルと国々を同時に救うことができなかったのでしょうか。


兄弟たちよ、神が以前は隠していたが、今は明らかにされたこの真理を理解してほしいのです。それは、異邦人世界が満ちるまで、ある程度は石ころのような状態がイスラエルを襲っているということです。ローマ人への手紙11:25


イスラエルがイェシュアを拒絶したことが、異邦人が救いを受けることにつながったと教えています。しかし、これは神学的にどのような意味をなすのでしょうか。なぜ神はイスラエルと諸国民を同時に救うことができなかったのでしょうか? 何らかの理由で異邦人救いには、イスラエルが(少なくとも部分的には)心を硬くされる必要があったのです。しかし、なぜそうなのでしょうか?


その答えは、イスラエルの救いが再臨の引き金になるからです。ヘブライ聖書(旧約)も新約聖書も、ユダヤ人が集まって救われることが、来臨とメシアの時代につながる出来事を引き起こす、と予言しているのです。


ゼカリヤ12-14章は、イスラエルのメシアへの国としての回心(わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。 ゼカリア12:10)を明らかにし、民としての免罪(その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。 その日 万軍の主のことば わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。‥13:1〜2)をもたらし、それはおそらくゼカリヤ14章の冒頭の出来事、裁きの後に起こり、メシアがイスラエルのために現れ、(見よ。主の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。‥‥」主が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。‥‥すべての聖なる者たちも、主とともに来る。‥‥その日にはエルサレムからいのちの水が流れ出る。‥14:1〜8) 王国が確立することにつながるのです。「主は地のすべてを治める王となられる。その日、主は唯一であり、その名は唯一の名である」(14:9)。


ヨハネの黙示録1章7節は再臨の時、「彼を刺した者たち」が嘆き悲しむと語っています。(見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。黙示1:7)

これはゼカリヤ12章10節にある「ダビデの家とエルサレムの住民」を明確に指しています。


マタイ23章39節は、(わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは‥‥まことにおまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。‥わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」マタイ23:29〜39) エルサレムの正統派ユダヤ人がいつの日か、イェシュアを歓迎することを預言しています。

またパウロはローマ11章で、ユダヤ人の受け入れによってもたらされる「より大きな富」について(彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。12節)について語り、「死者からの命」(もし彼らの捨てられることが世界の和解となるなら、彼らが受け入れられることは、死者の中からのいのちでなくて何でしょうか。 ローマ11:15)という言葉を用いていますが、これは最初の復活(残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。黙示録20:5-6)を指していると思われます。


つまり、もし大量のユダヤ人がイェシュアを受け入れることが再臨の「きっかけ」になるのならば、イスラエルがイェシュアを一時的に拒絶する事が必要なのです。神がもしそうしなかったならば、諸国民たちはそのまま失われることになっていたからです。これは新約聖書学の名誉教授(ウィクリフ大学)である、テレンス・ドナルドソン氏の見解でもあります。


もし、イスラエルがキリストを受け入れることがパルーシア(来臨、再臨)につながり、パルーシアが異邦人の救いの機会の終了を意味するならば、イスラエルが直ちに福音を受け入れることは、異邦人への扉が閉ざされることを意味するのです。


神の愛 対(vs)私たちの愛


アブラハムが神よりも憐れみ深いとか、モーセが怒った神を説得したのはモーセの憐れみが大きかったから、と考えるのは無茶な話です。確かに、神は憐れみを愛しておられるので、彼らを仲介者にしてとりなすように仕向けられたのは事実です。神は、モーセが一緒に新しい民を作ろうという申し出に応じなかったことに、驚きませんでした。モーセがそのような反応(反対)をすることを、すでに知っておられたのです。あわれみは裁きに勝つのです(あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。ヤコブ2:13)。


アブラハム、モーセ、パウロに見られるのは、神のあわれみは被造物のあわれみをはるかに超越している、ということです。もしアブラハム、モーセ、パウロが裁きとその可能性に打ちのめされれば、神自身もまたどれほど悲しみ、打ちのめされるでしょうか。


神はユダヤ人のために、素晴らしい計画を用意されておられます。そして私たちクリスチャンは、ユダヤ人の救いのためにその神の計画の一部となるという、責任と使命があるのです。


すべてのキリスト者は、一時的な硬直状態が解除されるにつれ、開かれつつあるユダヤ人に福音を伝えたいと願うようになるはずです。異邦人はイスラエルを嫉妬させるために召されており、その嫉妬の結果としてユダヤ人が信仰を告白するとあるからです。


私の祈りは、イスラエル全体がメシアに対して霊的に目覚めることです(もちろん、救われていない日本人も祈りの対象です)。同時に、日本の教会がイスラエルに対して目覚めるよう、求め働き続けています。


日本の教会が、日本にあるユダヤ人コミュニティー、そして日本に滞在しているイスラエル人への福音宣教にもっと関わるようになれば、きっと神は日本をもっと祝福してくださると確信しています。日本のユダヤ人コミュニティーへの福音宣教は、日本のリバイバルの鍵になるのです。私たちが日本に居るユダヤ人のためにさらに力を注ぐと、神が日本をもっと祝福してくださり、私たちは日本の霊的覚醒を見ることができるでしょう。


そして日本を通して救いを得た新しいユダヤ人ビリーバーたちが、彼らが御国に入るため祈った日本人クリスチャンたちに駆け寄って抱擁する時、それはどんなに美しい日になることでしょう。

これこそ、まさに一人の新しい人のあるべき姿です。


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