モーセのトーラー(律法ではなく、インストラクション = 教授,教育,教え,命令,訓令,指令,指図)には、多くの規則があるという事実の先には何があるのだろう。
ヨーロッパのキリスト教徒は、ヘブライ聖書(旧約)は律法であり、新約聖書は恵みであると考えがちです。この立場を正当化するために、ヨーロッパの神学者たちが使う主要な聖句は、新約聖書の中にあります。"律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はメシアであるイェシュアを通してもたらされたからである" (ヨハネ1:17)。多くの人はこの聖句を、律法と恵みを対立させ、両者を対比させるものと見ています。恵みは良いもので、律法は悪いと。
メシアニック・ムーブメント(メシアニック・ジュダイズム)とは、聖書に基づいたユダヤ人と異邦人の運動で、イェシュア(イエス)を、ユダヤの律法と預言者達が語った「イスラエルのユダヤ人メシア」であると信じる信仰なのですが、それに属する私たちは、ヨーロッパのキリスト教徒とは違う見方をしています。私達の見方は以下のものです。
1, ヨハネは、対比ではなく、年表を述べています。まず律法で、次にイェシュアを通しての恵みの啓示です。律法が土台となり、その上に恵みが築かれたのです。ローマ人への手紙7章7節で、訓練を受けたラビは「律法がなかったら、私は罪が何であるか知らなかったでしょう」と語っています。
2, 神の恵みはイェシュアにおいて一段と大きく啓示されましたが(テトス2:11)、ヘブライ聖書(旧約)の神を「恵み以外のもの」と見なすのは無知なことでしょう。神はイスラエルの民にこのようにご自身を啓示されています。 「主よ、主よ、慈しみ深く恵み深い神、怒ることおそく、愛と誠実さに満ち、幾千もの愛を保ち、悪と反逆と罪を赦される」。(出エジプト34:6-7)とあります。 神の名は神の属性と結びついています。"複合名称 "の中にこそ、神の性格がよく表れているのです。エルシャダイのように救う力があり、また、エル・ロエのように、供給者(文字通り、見る神)でもあります。
聖書研究家のサラ・クーンツ氏は、「恵みー無償の好意ーという概念は、聖書全体を通して織り込まれている」と言いました。
・園で神が罪を犯した男とその妻を覆われたとき。
・アブラハムの召命は、アブラハムが一つの国民を作り、その国民を通して世界に神がご自分を現すためでした。
・ヨセフの召命は、多くの国々とイスラエルそのものを救うためです(ヨセフが兄弟を赦すときに、神の恵みが見られます)。
・エステルを使ってハマンを止めたこと。
・ギデオンやサムソンは、イスラエルを守るために召されました。
・創造という行為は、それ自体が恵みの行為 なのです。
・ 虹のサインは、神の恵みの行為でした。
・イスラエルが罪を犯しているにもかかわらず、神がイスラエルに忠実であることは、神の恵みの行為です。
シノペのマルキオン(キリスト教神学者)は、このことに気づかず、古代イスラエルの神を否定したのです。しかし、ヘブライ聖書の神は、メシアであるイェシュアという(天の父のなさることを行う)お方を通して、私たちに最も偉大な形でご自身を啓示しておられるのです。(ヨハネ5:19)
3. 新約聖書には律法はないのでしょうか?山上の垂訓は、律法を単なる行動の領域から、心に適用することによって、実際に律法を強化しています(マタイ5:22,28)。新約聖書には、厳しい裁きの行為はないのでしょうか。ユダは首を吊り(マタイ27:5)、アナニアとサッピラは殺され(使徒5:1)、ヘロデは裁かれ(使徒12:23)、偽預言者バルイエスは目をつぶされました(使徒13:6)。
4. 人々が律法をお与えになったお方の視点を見失って、律法は人々の重荷となってしまったのです。しかし、詩篇119篇を読むと、律法は乾いて生気がないものではありませんでした。彼は神の言葉を蜂蜜に例えて、それが灯りであり導きであると言っています。 このように、両約聖書は、「神の契約上の約束を守る誠実さを継ぎ目なく示す」 というメッセージと目的において、真に統一されていることを私達は見い出すのです。
素晴らしい記事をありがとうございます。二点質問があります。
・「律法」は誤訳であり、モーセのトーラーは、(律法ではなく)インストラクション = 教授,教育,教え,命令,訓令,指令,指図である、という意味でしょうか?
・異邦人が律法を守ることについてはどのようにお考えでしょうか?