聖書を信じるクリスチャンにとって、ユダヤの伝統は助けとなるのでしょうか。それとも、危険物となるのでしょうか?
- ダビッド トゥルーベック
- Apr 23
- 3 min read

質問:
トゥルベック先生、こんにちは❣️ 先生はいのちの木メシアニック集会の長老のお一人ですね。ウェブサイトを読んでいて、「ラビ的ユダヤ教は生きた絆であり…メシアニック・ユダヤ教はその伝統の豊かさを活用することができ、また活用しなければなりません。」というフレーズを見つけました。神の完全な啓示が完了した後でも、聖書以外の資料を学ぶことが奨励されているように思えます。しかし、聖書自体が教えているように、聖書だけで十分で、誤りがなく、間違いがないのではないでしょうか。
あなたは、教えと信仰において、ラビの教えにどれほどの権威を与えていますか? 信者は、心と魂に必要なすべてをすでに明らかにしている聖書に加えて、このような追加の知識を必要としているのでしょうか?
私の回答:
シャローム、そして思慮深いメッセージといのちの木の共同体(集会)について読んでくださり、本当にありがとうございます。聖書の真理を信じるあなたの心、そして聖書の充足性と権威に根ざし続けたいというあなたの願いに深く感謝します。それこそが、私たちが完全に共有する基盤です。
まず第一に、私たちは聖書だけが神の霊感を受けた、誤りのない、そして間違いのない神の言葉であると固く信じています(第2テモテへの手紙3章16-17節)。聖書は救い、弟子としての歩み、そして神の救済計画の完全な啓示に十分なものです。救いはメシアであるイェシュア(イエス・キリスト)を通してのみ得られます。主ご自身がこう言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書 14章6節)
「豊かな伝統から学ぶ」と言う言葉を使用する時、それは聖書に新たな情報を加えたり、聖書を学ぶのと同等にラビたちの言葉を権威あるものとして扱うことを意味するものではありません。むしろ、聖書の文脈をより深く理解するために聖書時代の地理や習慣を学ぶのと同じように、ユダヤの伝統、文化、歴史的解説の側面を背景として学ぶこともあります。しかし、これらは決して神の言葉に匹敵するものではありません。
実際、旧約聖書(タナハ)にはメシアを指し示す多くの「影」と「型」が含まれており、新約聖書の光に照らすと、これらの真理はより深い理解によって生き生きと蘇ります。パウロはこう書いています。「昔書かれたものはすべて、私たちの教えのために書かれたのです。それは、聖書の忍耐と励ましによって、私たちが希望を持つようになるためです。」(ローマ人への手紙15章4節)。聖書全体は、メシアを中心とした、一つの統一された救済の物語なのです。
ですから、私たちは聖書以外の物を権威あるものとして加えている訳ではありません。むしろ、ユダヤ教の文脈に根ざした聖書の完全性を理解し、特にユダヤ人の兄弟姉妹に福音をより明確に宣べ伝えることができるよう努めているのです。
そして、皆さんと同じように、私たちも日本やその他の地域でまだ救い主を知らない99.8%の人々のために心を燃やしています。チョーズン・ピープル・ミニストリーズ・ジャパンのボランティアは、日本の人々の救いのために祈り、働くだけでなく、日本の人々への伝道にも積極的に参加しています。もちろん、私たちの使命は、ここ日本とイスラエルの両方でユダヤ人への奉仕に重点を置いていますが、同時に、救いのメッセージをすべての人々に伝えることの重要性も認識しています。「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人(日本人)にも」(ローマ人への手紙 1章16節)
祈りと資金を通して、私たちを支えてくださる皆様に感謝いたします。
イェシュアの愛を込めて、
デイビッド・トゥルーベック
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