私たちの言葉には力があります。言葉によって、私たちは高め合うことも、引き裂くこともできます。祝福することも、呪うことも、癒すことも、傷つけることもできるのです。聖書は、私たちの舌が持つ大きな責任について、しばしば強く警告しています。
レビ記の中で、神はこう言われました。
「悪を行うため、または善を行うために、口先で軽率に誓うなら、また、人が誓いをもって軽率に話すことができる事柄が何であれ、それがその人に隠されていて、その人がそれを知るに至ったなら、その人はこれらのうちの一つで罪に問われる」
(レビ5:4)。
特に怒っているときや感情的になっているときには、軽率な言葉を口にするのは簡単なことです。しかし、これは軽率な言葉に対する正当な言い訳にはなりません。よく考えずに口にしたことでさえ、私たちは責任を負うのです。この場合、レビ記は特に誓いを取り上げています。
イェシュア(イエス)自身も、守れない誓いを立てることの危険性を警告され、むしろ「はい」か「いいえ」とだけ答えるべきだと主張されました(マタイ5:33-37)。未来は私たちのコントロールや知識の外にあるのだから、ある仕事をすることについて大げさなことを言うのは避けた方が賢明なのです。
ヤコブはまた、私たちの言葉の力についても警告しています。ヤコブが言うように、小さな舵が舟の進む方向をコントロールするように、「舌もまた、からだの小さな部分であるにもかかわらず、大きなことを誇るのです。」(ヤコブ3:5)。私たちの舌は小さいのですが、すぐにトラブルに巻き込まれます。そして、一度言ってしまったことは取り消せません。私たちは誰でも、もっと違う言い方をすればよかったと思うようなことを言ったことがあるのです。
タルムード(Arakhin 15b)にはこうあります―
「エリシャの子ラビ・イシュマエルの学派はこう教えた: 悪意ある言葉を口にする者は、三大罪に相当する程度までその罪を増大させる。三大罪とは偶像崇拝、禁じられた性的関係、そして流血である。」
ラビ、ジョナサン・ヘンリー・サックス(1948年3月8日 - 2020年11月7日)はこう書いている:「私たちは言葉で世界を創造する。だからこそ、聖なる賢人たちはラション・ハラア(悪口)を非常に重く受け止め、最も重大な罪とみなすのだ」。
ありがたいことに、このような判断ミスは深刻ではあるが、それで終わりというわけではありません。レビ記には、自分の言論の罪を発見した後に捧げる罪の供え物について書かれています(レビ5:5)。祭司は「その人の罪のために、その人に代わって贖いをする」(レビ5:6)。神は、自分の罪を認めた者が神と共同体と和解する道を用意されたのです。
今日、私たちが軽率な言葉によって罪を犯したときには、怒らせた相手との和解を求めるべきです(ヤコブ5:16)。そして私たちの贖いのためにご自身を犠牲にし、私たちのために執り成してくださる大祭司イェシュア/イエスに、立ち返るのです(ヘブル7:25-27)。
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