過ぎ越しの祭りの意味
- ダビッド トゥルーベック
- Apr 9
- 3 min read
Updated: Apr 10
「この夜は主のために、イスラエルのすべての子らが代々守るべき夜である」 (出エジプト記12:42)。

なぜ過越祭なのか?
過越の祭りは、ユダヤ暦で最も重要な祭りのひとつです。 神の誠実さを思い起こさせるだけでなく、罪のための一度きりのいけにえとなった、神の子羊であるメシアを指し示すものでもあるからです。したがって神は、ユダヤ人に対して過越の祭りを代々守るように命じました。
毎年の過越の祭りは、主の約束に対する忠実さをユダヤ人に思い起こさせます。神はアブラハムに多くの国民の父となり、彼の子孫がイスラエルの地を永遠の所有として受け継ぐと約束されました。 しかしそれから数年後、ユダヤの民はエジプトの地で奴隷となりました。 祖国に関する約束が破られたように思えたので、彼らが神の誠実さに対して疑問を抱いたとしても無理はありません。
しかし神は忠実であることを証明され、ご自身の民を自由へと導くためにモーセという解放者を起こされました。 パロがユダヤの民を解放することを拒んだ時、神は10の災いを送られました。この災いはすべての人に影響を与えたでしょうが、このように神はイスラエルが救われる道を用意されました。汚れのない子羊の血を家の門柱と門の上に塗った者はみな、死の天使により「過ぎ越され」、長子の命が助かったのです。 パロの長男の死はイスラエルの民を解放するようパロを駆り立て、神は力強く伸ばした腕で彼らを救い出されました。
過越の祭りとメシア
過越の祭りはまた、出エジプトよりもさらに偉大な出来事、すなわち私たちを罪から贖う究極の過越の小羊、メシアであるイェシュアの死を指し示しているという点でも重要です。ラビ・シャウル(使徒パウロ)は、コリントの信徒たちに向かって、「私たちの過越の祭りも、メシアが犠牲になったのです」(1コリント5:7)と書いています。イェシュアは過越の祭りに命を捧げ、犠牲制度の要件を満たされました。 彼はすべての過越の小羊が指し示す、究極の汚れのない小羊だったのです。
過越の小羊は汚れのないものでしたが、イェシュアも同様に罪によって汚れていない全きものでした。 大祭司が身代わりのいけにえとして罪のない子羊にユダヤ人の罪を移したのと同じように、私たちの罪もイェシュアがその身に負われたのです。 預言者イザヤはこう書いています―
しかし、彼は私たちの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。 私たちはみな羊のように道を踏み外し、ひとりひとりが自分の道を歩んだが、主は私たちすべての咎をご自分の上に負わせられた。(イザヤ53:5-6)
ユダヤの民が過越の小羊の血を家に塗ることによって初子の死から救われたように、イェシュアの血を心の「門柱」と「門」に塗る者は霊的な死から救われます。 このように過越の祭りは、神に選ばれた民をエジプトの束縛から救い出しただけでなく、神の子羊、メシアであるイェシュアを遣わすことによって私たちを罪から救い出してくださった神の誠実さを思い起こさせるのです。
日本に住むビリーバーとして私たちは、救い主をまだ知らない周りの人々にこの救いのメッセージを伝える責任があります。私たちはまた、私たちの日本列島を訪れるイスラエル人のゲストのことを心に留め、祈りと献金を通して、この島々のユダヤ人コミュニティへのミニストリーを積極的に支援すべきなのです。そうすることで、私たちは祝福となり、そのお返しとして主は私たちをさらに祝福してくださるでしょう。
私たちのユダヤ人への奉仕は、神がこの地上を歩んだなかで最も偉大なユダヤ人であり、メシアであるイエスを通して成就されたすべてのことに対し、感謝することから始まることを忘れないようにしましょう!
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