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  • ダビッド トゥルーベック

旧約聖書(タナク)におけるイエス(イェシュア・ハ・マシアハ)

《イザヤ書52章13節-53章12節》


「苦難のしもべ」が描かれているイザヤ52-53章は、タナク(旧約聖書)の中で最も力強い箇所の一つです。この聖句には、メシアの苦難に関する五つの預言的洞察が含まれています。メシア的聖典(新約聖書)に描かれているイエスの姿は、彼がどのようにしてイザヤの預言的ビジョンを成就したかを示しています。

📷 Shlomi Znati 《「苦難のしもべ」のアイデンティティ》


「苦難のしもべ」とは誰でしょうか?中世フランスの高名なラビであるラシ(1040-1105年)が新しい解釈を紹介するまでは、ユダヤ人社会ではほとんど誰もが、この聖句を「メシア預言」として読んでいました。しかしこの偉大なラビが、この箇所を《イスラエル民族全体の苦しみについて言及しているもの》として解釈したために、それ以来この解釈がユダヤ教に影響を与えています。


しかし、テキストと文脈を見るならば、「しもべ」が《残りの者》や《民全体》から区別されているのは明らかであり、「しもべ」とは個人——すなわちメシア——であることがよくわかります。「しもべ」は、ご自身の民であるイスラエルのためだけでなく、全人類のために苦しみます。



《「メシアの苦難」の名声と誉れ:52:13-53:3》


この預言に記されているお方は、「主のしもべ」と呼ばれています(52:13; 53:11)。また、さらに数多くの類義表現(「わたしのしもべ」)も用いられ、彼が「高められて、上げられ」ることが示されます(52:13)。多くの人は、その傷ついた姿に嫌悪感を抱くでしょう(52:14)。


新約聖書には、イザヤ書への言及が少なくとも80箇所あり、その多くがこの箇所を引用しています。伝道者ピリポは、イエスをイザヤ書53章の成就者と見なすことに躊躇しませんでした(使徒8:35参照)。



《「メシアの苦難」による贖いの獲得:53:4-6》


メシアは自分のために死んだのではありません。彼の苦しみは彼の罪ゆえではありません。彼は自分の民のために、嘆きと報いを負ったのです。その死を通して、イスラエルの罪と咎の償いをされたのです(53:4-6)。羊のようにさまよっていた民のために、メシアが私たちの身代わりとして打たれることを神が許し、それによって民は贖いを経験することができたのです(53:4-6)。



《「メシアの苦難」における諦念:53:7-9》


苦難を味わったとしても、メシアが抗議や不満を口にすることはなかった、と書かれています。それどころか、彼は柔和で優しかったのです。彼は口を開きませんでした(53:7)。驚くべきことに、メシア・イエスは何の弁明もしませんでした。



《「メシアの苦難」への報酬:53:10-12》


「しもべ」は主のみこころに適い(53:10)、自身の苦しみのあとを見て満足します(53:11)。彼は多くの人を義とし、彼らの咎を負ったので、「わたし[主]は多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る」ことになります(53:12)。


新約聖書によれば、イエスは私たちの偉大な大祭司として、罪を犯す者たちのために執り成してくださる特権を持っておられ、今もそうされています(イザヤ53:12; ヘブル7:25)。

《結論》

イザヤ52章13節-53章12節から得られる預言的洞察は、私たちを一つの方向へと——メシアであるイエスと、驚くべき贖いへと——導きます。


普段から私はこのメッセージを通して、イエス(イェシュア・ハ・マシアハ)にある良い知らせをユダヤ人たちに伝えています。


しかし私は、クリスチャンたちにとっても、このメッセージが重要であると信じています。タナク(旧約聖書)においてイエスを見出すべきことと、新旧約聖書の両方が永遠の神の言葉であり、救いの使信に導く言葉であること、これらのことを理解することが大切だからです。

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