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  • ダビッド トゥルーベック

「ユダヤ人」はイエスを殺したのか?


「キリスト(または神)殺し」は、1900年間ユダヤ人の通称となった。この名前のもとエルサレムだけでなく、ヨーロッパの多くの都市でユダヤ人の血が流され、4世紀の司教ヨハネ・クリュソストムはユダヤ人全体をディーイサイトdeicide(神を殺す者)と断罪している。

ヨハネ・クリュソストム(347-407年頃)は、コンスタンティノープルの重要な司教で、『ユダヤ人に対する説教Adversus Judaeos』などの講義に含まれる、狂信的な反ユダヤ主義で知られる人物である。ユダヤ人の死生観は彼の神学の礎であり、死生観という言葉を初めて使い、キリスト教の説教者として初めてユダヤ人に死生観という言葉を一括して適用した人物である。彼は、この想定される "神を殺すもの者 "に対して、罪滅ぼし、恩赦、赦免はあり得ないとした。(ウィキペディアより)




しかし、民族全体がイェシュアの死によって断罪されるのだろうか? 教父たちはそう考え、ユダヤ人全体にその罪を負わせることを熱望した。以下がその一例である。

真のヘブライ人は、主を銀で売ったイスカリオテのユダである。ユダヤ人は聖書を理解することができず、イエスの死に対して永遠に罪を背負うことになる...。彼らは救い主の死の罪を負い、彼らの父祖を通してキリストを殺したからである。-アウグスティヌス

イエスの血は、当時のユダヤ人だけでなく、世の終わりまで、すべての世代のユダヤ人に降り注ぐだろう。-オリゲネス


ローマ人はどうなんだ?



もし、一部の人の行動で民族や人種全体を非難できるのなら、なぜ誰もイタリア人全員の死を求めないのだろうか?死刑を命じた張本人はローマ人のポンテオ・ピラトであり、ローマ兵は無慈悲にもイェシュアをあざけり、殴り、十字架に釘を打ったのだ。確かにユダヤ人の指導者たちは関与していたが、それを実行に移したのはピラトである。


そして、私たちは、このユダヤ人の指導者たちがユダヤ人の気持ちを反映したものであったのか、と問わねばならない。この指導者たちは、イェシュアを愛する大勢のユダヤ人たちを恐れていた、と記録されている。サンヘドリンがイェシュアに手を掛けようとした時、彼らはユダヤ人の大勢を恐れた、(マタイ 21:46 )ともある。そこで,祭司長や民の長老たちは,カヤパという名の大祭司の宮殿に集まり,ひそかにイエスを逮捕し殺そうと画策した。 しかし、祭りの最中はだめだ。民衆の間に暴動が起こるかもしれないから、との結論に至った(マタイ26:3-5)

マイク・ムーアはこう語っている―

彼らは夜間に彼を逮捕し、密かに裁判を行ったので、十字架につけられた朝、エルサレムの大多数の人々は、彼が処刑されることを発見して驚き、狼狽したと思われる。そして大勢の民衆が彼について行き、彼を嘆き悲しんだ(ルカ23:27)。

イェシュアは、ユダヤ人ではなく、熱心党と呼ばれるユダヤ人指導者たちの小集団により、ピラトの家に連れて行かれたのだ。

"そのとき、指揮官を連れた兵士の分遣隊とユダヤの役人たちがイエスを逮捕した。" (ヨハネ18:12)

"それからユダヤの指導者たちは、イエスをカイアファからローマ総督の宮殿に連れて行った。" (ヨハネ18:28)

新約聖書のどこにも、街全体がイエスの死を求めていたとは書かれていないが、当時街にいた約50万人の中の群衆でさえ、宗教指導者たちによって扇動されていたのだ。イェシュアはユダヤ人の大衆に愛され、彼らはイェシュアの教えを聞き、病を癒すために各地から集まってきたのだ。

「そして、彼が行くところ、すなわちユダヤ人の村、町、田舎のどこでも、彼らは病人を市場に置いた。彼らは,彼の外套の端にでも触らせてくれるようにと懇願し,それに触れた者はみな癒された。(マルコ6:56)」


ここの問題の一つは、ヨハネによる「ユダヤ人」という言葉の解釈の仕方である。多くの場合、この言葉はイェシュアをピラトのもとに連れてきた人たちのことを指している。ヨハネによる福音書18章では、「ユダヤ人」ではなく、「ユダヤの宗教指導者たち」「ユダヤの権力者たち」という表現が使われている。


多くの人が「ユダヤ人」という言葉を使うことに伴う問題点は、あたかもすべてのユダヤ人がイェシュアの逮捕に関与・加担していたかのような印象を与えることだ。聖書は、ニコデモのような有名な指導者をはじめ、非常に多くのユダヤ人がイェシュアに従っていたことを明らかにしている。

彼がエルサレムに来ると、町中の人が『これは誰だ』と言ったので、大勢の人が『ナザレの預言者、イェシュアだ』と言った」。(マタイ21:10,11)

人々の多くは彼を信じて言った、「メシアが来られたら、この人がしたこれら以上のしるしをなさるでしょうか」。(ヨハネ7:31)

ユダヤ人の支配者たちの間でも、多くの人が彼を信じた。"(ヨハネ12・42)

また、使徒の働きには、多くのユダヤ人祭司が信者になったと書かれている(使徒6:7)。ヘブル人への手紙は、このような逃れていた神殿祭司たちに向けて書かれたと考える人もいる。信仰を持った後、彼らは神殿での務めを果たせなくなった。なぜなら、一度限りの究極的な生け贄がすでに捧げられたからである。


「ユダヤ人」とは誰か

ヨハネが、イェシュアを逮捕した人々を指して「ユダヤ人たち」という言葉を使ったとき、それは指導者たちだけを意味していたことが証明される。これを見てみよう。

カヤパはユダヤ人たちに、民のために一人の男が死ぬのが好都合であると進言したのである。(ヨハネ18:14)

これは、イェシュアがラザロを死者の中からよみがえらせた後、指導者達がイェシュアを殺そうとした企てを指している。ヨハネはカヤパがユダヤ人たちに忠告したと言っているが、ユダヤ人たちとは誰だろうか?

そのとき、祭司長たちとパリサイ人たちはサンヘドリンを招集し、そのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパがこう言った、「あなたたちは何も知らない。 あなたがたは、国民全体が滅びるよりも、一人の人が国民のために死ぬ方がよいということに気がついていないのです』」。(ヨハネ11:47、49-50)

ここから分かるように、ヨハネが「カヤパがユダヤ人たちに向かってこのように言った」というのは、サンヘドリン(ユダヤ教の統治評議会である70人だけの会)のことであって、すべてのユダヤ人のことではないのだ。


ヨハネの記録では、イエスが十字架につけられるよう叫んだのは指導者たちであった。祭司長たちとその役人たちは、彼を見るや否や、「十字架につけろ!」と叫んだ。(ヨハネ19:6)


他の記述では、群衆が参加したことに言及しているが、マタイが書いているように、彼らが指導者によって操られていたことは明らかである。「しかし、祭司長たちと長老たちは、バラバを要求し、イェシュアを処刑させるように群衆を説得した」(マタイ 27:20))。彼らがどのような手段で群衆を説得したかは分かり得ないが、賄賂は当時の一般的な手段だったのだろう。恐らく彼らは、前日の裁判で偽の証拠を提供するため、証人を装うよう人々に金銀を与えたのだろう。


エルサレムには約10万人のユダヤ人が住んでおり、過ぎ越しの祭り(ペサハ)の時期であったので、さらに50万人以上の観光客がいたはずだ。そこからエルサレムにあるピラトの宮殿に、その時50~60万人のユダヤ人がいたと考えるのは論理的なものだろうか。


このように歴史を通して数多のユダヤ人がイェシュアの死という濡れ衣を着せられ、キリスト・神殺しという非難から殺されたのだから、これは決して勘違いといった言葉ですまされる、些細な問題ではないのだ。ここで強調したいのは、イェシュアへのねたみからピラトのもとに行ったのは、おもにユダヤ人の指導者たちであったということである。大勢のユダヤ人はイェシュアを愛していたか、または肯定的に捉えていたのだ。


熱心党であり政治的志向の強い少数の指導者たちと、操られた群衆の行動のため、ユダヤ民族全体が非難されたのだ。しかし、指導者たちが皆、彼をねたんでいたわけではないことを指摘しておかなければならない。

「しかし、同時に、指導者たちの中にも、彼を信じる者が多かったのです。しかし、パリサイ人たちのために、彼らは会堂から追い出されるのを恐れて、その信仰を公然と認めようとしなかった。(ヨハネ12:42)」

このユダヤ人指導者たちは、信じてはいたが恐れていた。ニコデモはユダヤ人の指導者であり、実はサンヘドリンに所属していた。彼は当初、イェシュアと話をしているのが公になるのを恐れ、密かに会っていたが、やがてイェシュアの最も熱心な信奉者の一人となった。

「さて、あるパリサイ人の中にニコデモという人がいて、ユダヤの統治評議会の一員であった。彼は夜、イエスのところに来て言った、「ラビ、あなたが神から来られた教師であることは分かっています。神が共にいなければ、だれもあなたのしておられるしるしを行うことはできないからです』」。(ヨハネ3:1-2)


こうして次のような主張が、まったくの誤りであることがお分かりいただけたかと思う。

1) すべてのイスラエル人がイェシュアを拒絶した。

2) イェシュアを殺したのはユダヤ人、あるいはローマ人である。




イェシュアは、自身の死について自分が決めたことだと語っている。

「私の父が私を愛してくださるのは、私が自分の命を捨て、再び取り上げるからです。誰もそれを奪いません。私には捨てる権威と再び取り上げる権威があります。この命令は、私の父から受けたものです」。(ヨハネ10:17-18)

イェシュアは私たちのために死ぬことを選ばれたのだ。そして次の事実を忘れてはいけない― 彼が十字架につけられなければ、私たちは救いを享受することができないのだ。

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