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  • Writer's picture ダビッド トゥルーベック

お一人のメシアが2回来られる----そして再臨(2度目に来られるの)はもうすぐかもしれません!

ある日、ユダヤ人の友人との議論が白熱していた時に、彼は怒ったような口調で次のように叫びました。「君が信じているイエスが、メシアであったはずはない!この世界にはまだ平和が来ていないじゃないか!」


私は次のように答えました。イェシュア(イエス)が一度目に来られたのは、「苦難のしもべ」の預言を成就させて私たちの罪を贖うためであり、間もなくイエスは二度目に来られて、義をもって世界を裁き、約束された平和と正義の時代をもたらすのだ、と。


友人は次のように反論しました。「『再臨』という考えはどこから生じたんだい? イエスの一度目の来臨が成功しなかったから、二度目の来臨が必要になってしまったんじゃないか? 聖書には、メシアが二度来るなんてことは書かれていないじゃないか。」


おそらく友人は、ラビ・カプランの著書『本当のメシア』を読んだのでしょう。その本には次のように書かれています。「メシアの主要な務めは、全世界を神に立ち返らせ、戦争や苦境や不正を取り除くことである。しかしイエスには明らかに、この務めを成し遂げられなかった。だからキリスト教徒たちは、この失敗を回避するために “再臨” の教義を考案したのだ。一度目の来臨でイエスが成就しなかったすべての預言は、二度目の来臨で解決される、ということにしたのだ。しかし、ユダヤ教聖典〔旧約聖書〕は、キリスト教の『再臨』という教義を支持する証拠など、全く提供していない。」


これは、「イェシュアは約束のメシアであり得るか」という問いに対する、ユダヤ教からの伝統的な答えです。確かに、イェシュアが到来してから今日に至るまで、世界的な平和は訪れていません。しかし、だからと言ってイェシュアが、ユダヤ教聖典が預言したメシアではない、ということになるのでしょうか? この点について考えてみましょう。


〈ラビ・ユダヤ教の問題点〉

ラビ的伝統に目を向けてみると、ラビたちもこの問題について苦労していたことがわかります。預言者たちが思い描いていたのは、メシアが君臨し、イスラエルを贖い、戦争を終わらせ、神についての知識を全世界にもたらす、という明確なイメージでしたが(イザヤ2章1-4節, 11章1-9節, エゼキエル40-48章, ダニエル2章44節, ゼカリヤ14章)、イスラエルの贖罪のためにメシアが苦難を引き受ける、という預言もありました(詩篇22編, イザヤ52章13節-53章12節, ダニエル9章25-26節, ゼカリヤ12章10節)。ラビたちはどのようにして、(一見すると矛盾している)メシアに関するこの二つのイメージを調和させたのでしょうか?


とても興味深いのですが、「二人のメシアが存在する」という、紀元3, 4世紀に遡る考え方があります。苦難を引き受けて死ぬ「ヨセフの子メシア」と、支配者として治める「ダビデの子メシア」が存在する、という考え方です。苦しむほうのメシアは、エジプトでのヨセフのように(創世記37-41章)拒絶と屈辱を受けるので「ヨセフの子」という名が付けられました。他方、支配者となるメシアには、ダビデのように治めるという意味で「ダビデの子」という名が与えられています。

〈別の見方〉

それでは、「メシアは二人いる」ということなのでしょうか。それとも預言者たちは、一人のメシアが、二つの異なる使命を持って、二つの異なるタイミングで来臨する、と述べていたのでしょうか。後者の見解について検討してみましょう。


イェシュアの生涯についての新約聖書の記述は、イェシュアは全ての預言を成就するメシアである、という結論を示しています。新約聖書の記者たちはさらに、イェシュアが将来、誰にも予想できないタイミングで再臨する、と教えています。したがって新約聖書は、一人のメシアが二度来られる、と教えているわけです。これは単なるおまけの教義ではなく、むしろ新約聖書全体のメッセージに不可欠なものです。


イェシュアが失敗をしてしまったので、もう一度来なければならなくなった、というようなことではありません。むしろ、一度目と二度目とでは異なる目的がある、ということを示しているのです。イシュアは、世界を罪から贖うために犠牲を払って、「苦難のしもべ」というメシア預言を成就されました。またイエスは、他のメシア預言をも成就しました。ベツレヘムにおいて処女から生まれ(イザヤ7章14節)、貧しい人々に福音を伝え、罪と病に囚われている人々を解放しました(イザヤ61章1-2節)。イエスは罪を犯した者として——彼に罪はありませんでしたが——処刑され、その死の原因となった人々のために祈り、金持ちの墓に葬られ、三日目に死からよみがえられました(詩篇22編, イザヤ53章, ゼカリヤ12章10節, 詩篇16章8-11節)。


メシア・イェシュアが力と栄光を帯びて再び来られるとき、彼こそが待望のメシアであり、「ダビデの子」であったことが明らかになります。彼はエルサレムを巡る争いや、世界を滅亡の危機に陥れる争いに終止符を打つでしょう(ゼカリヤ12-14章、黙示録16-19章)。さらに彼は、地上の腐敗、悪行の原因であり、終末の艱難の原因である世界システムを破壊し(エレミヤ51章、黙示録18章)、エルサレムから神の王国を樹立して、世界の国々に平和と正義をもたらします(イザヤ2章1-4節、黙示録20章4-6節)。


イェシュアの初臨によって恒久的な平和はもたらされなかった、という事実は、彼がイスラエルのメシアであったという可能性を否定するものではありません。むしろ、一度目の来臨では罪のために死に、信じる人々に救いをもたらしたメシアが、二度目の来臨では裁き主として来られるということこそが、神のご計画だったのです。メシアには二つの使命があり、二つのタイミングで来る、という新約聖書の思想は、ヘブライ語聖書に見られるメシアの苦難と君臨という、二つの異なる「肖像」と完全に一致するのです。


イェシュアご自身が、初臨は「物語の終わり」ではないと語られました。彼は言いました。


「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(マタイ5:17-18)


一人のメシアが、二度来てくださるのです——二度目はすぐそこかもしれません!


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