主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
この箇所はヘブライ語で「もし神が私の羊飼いなら、私は恐れません」と書かれています。主が私たちの全ての必要を満たし、私のためにいのちを与えてくださるお方です。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
神が御言葉によって私たちのたましいを満たしてくださり、いのちの泉へと導いてくださることを覚えなければなりません。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。
ヘブライ語では、「私のたましいを『メショヴェヴ(ヘブライ語で「回復する」の意』」と書かれています。これは神が正しい場所に戻されること、つまり、私たちのたましいを新しくし、私たちのたましいに嵐が吹き荒れる時に神がその感情を受け止めて鎮めてくださることを意味します。そして、神の用意される良い道へ導いてくださいます。どのようにでしょうか?
「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネの福音書10章27節)
私たちは神の息子・娘であり、神の御霊は私たちを導いてくださいます。私たちは神の御声と導きを知っており、その御言葉から神の御心を知ります。
たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。
私たちが狭く不安な場所を歩んでいて、それが死の影のように感じる時でさえ、いつくしみと恵みが私たちと共にあります。前の文章が未来形で書かれていることに対し、「ともにおられます」がヘブライ語では「イマディ」と現在形で書かれていることは興味深いです。この言葉は、神は現在形であり、困難で恐ろしい状況においても私たちとともにいてくださると励ましてくれます。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
杖は羊飼いが群れを導く道具であり、羊が小道から外れた場合、彼は時々それを使って羊を軽く叩いて戻します。神は私たちを導き、励まし、訓練するために御言葉を与えられました。
私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、
ダビデは神との出会いを、愛する来客のために注意深く食卓の準備をする世話役のように描いています。主の食卓から食べることは尊敬や天からの贈り物、主との真に親しい関係を表しています(黙示録3章20節)。ヘブライ語に書かれているように、食卓は敵の前に置かれています。敵は目の前にいて、彼らはあなたが静かに座って食事をしている様子を目にしています。心がストレスや恐怖で満ちていると、人は食事をすることができなくなります。主の食卓は、私たちが遭遇するあらゆる状況に神の備えがあることへの信頼を表しています。
頭に香油を注いでくださいます。
聖書には王たちが頭に油を注がれた描写があります。それは名誉と献身の行為であり、神は私たち自身が神への供え物となるために頭に油を注いでくださいます。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(第一ペテロの手紙2章9節)。
私の杯はあふれています。
なんと素晴らしい言葉でしょうか。その杯は神の恵みについて語り、あふれんばかりのその豊かさが私たちに与えられます。私たちの杯は神からのすべての良いものに満ちており、他のものを求める必要がないのです。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追ってくるでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます。
主の家に住みたいというダビデの願いは、建物や何か物理的な場所に留まりたいというものではありません。彼はいつまでも神の臨在に近づき、その中に留まりたいと言っているのです。
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