「シャローム」(שלום) の本当の意味
- ダビッド トゥルーベック
- Nov 3
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シャロームの本当の意味はなんでしょうか?

多くの人がこのヘブル語の言葉を知っていると思いますが、大体の場合、この言葉は「平和」と訳されます。しかし、ヘブル語の言葉においては、様々なレベルの意味が含まれます。シャロームという言葉もそれに当てはまります。西洋の考え方において、多くの場合「平和」は戦争や争いがない状況を意味するだけです。しかし、聖書の中、またそれに従い、ヘブル文化において、「シャローム」はそれ以上の意味を持ちます。それは、健全さ、完全さ、調和、そして回復を意味します。そして、さらに深い理解のレベルにおいては、それは先ず私たちの内側から始まり、そして外側にあふれ出るものです。
戦争の終息、または外部からの圧力の結果として生じる対立の終結を、ヘブル語では「シャローム」という言葉では表現しません。争いが終息し、人々が死ななくなることはまさに麗しいことですし、それは神の望まれる秩序の一部です。しかしながら、聖書のヘブル語では、そのような一時的な状態を、「バティシュコット」(וַתִּשְׁקֹט)という動詞で表します。それは、士師記3章30節で見る、「この国は八十年の間、穏やかであった。」という意味で、真の平和ではなく、一時的な休戦、また戦争の合間の停戦を表します。
「シャローム」は、物理的なレベルでの和解としても理解できます。しかし、それは心からのものでなければいけません。シャロームの語根は、 (שׁלם)です。それは、「健全さ」、「完全な状態への回復」を意味します。
例として、出エジプト記21-22章では、誰かが隣人に危害を加えたり、盗みを働いた場合、どのように対処するべきかをモーセが説明していますが、そこでは何度もこの概念が見られます。損害を与えたり、盗んだりした者は、それを「償う」必要があります。それは、「完全な状態への回復」を意味します。言い換えるならば、失われたものを回復し、完全な状態に戻すということです。ですから、この箇所では、シャロームとは、物理的または物質的に、完全な状態に回復させることを意味します。さらに、物理的に回復させることを通して、魂の癒しも与えることができることは、注意すべき重要なことです。例として、モーセの律法によると、誰かが一頭の羊を盗んだなら、四頭の羊を返すことが求められました。(出エジプト記 22:1)
それは、物質的に失われたものを返すだけの行為ではなく、人の尊厳を回復し、盗みによる心の傷を癒す助けになりました。なぜならば、被害者は救済をもたらす寛大な補償を得ることができたからです。このように、そのような賠償は物理的なレベルでの実用的なシャロームの表現となり、壊されたものが修復され、その共同体に正義を取り戻したのです。
「シャローム」の豊かな意味のもう一つの例は、創世記43章27-28節に見ることができます。それは、ヨセフが父親の安否を問いかけた場面です。
「ヨセフは彼らの安否を問うて言った。『あなたがたが先に話していた、あなたがたの年老いた父親は元気か。まだ生きているのか。』彼らは答えた。『あなたのしもべ、私たちの父は元気で、まだ生きております。』そして、彼らはひざまずいて伏し拝んだ。」
創世記 43:27-28

これら全ての箇所において、シャローム(שָׁלוֹם)という同じヘブル語が使われていますが、英訳では、その豊かな意味合いを表すために、それぞれ違う言葉になっていることは、注目すべき興味深いことです。
「ヨセフは彼らの安否を問うて…(well-being)」(לְשָׁלוֹם – レ-シャローム)
「父親は元気か。(well)」(הֲשָׁלוֹם – ハ-シャローム)
「私たちの父は元気で、…(good health)」 (שָׁלוֹם – シャローム)
これらの違う表現は、シャロームは「平和」というように一つの意味に限定されないことを示しています。
そうではなく、それは肉体的にも関係性においても、完全に健康な状態であり、安全で、健全であることを表すのです。
ヨセフが、「あなたがたの年老いた父親は元気(ハ-シャローム)か。」と尋ねた際、彼は単に父親が生存し、または問題なく過ごしていることを聞いているのではなく、健全で平安の中、栄えているかと聞いたのです。しかしながら、興味深いことは、私があげた例の両方において、シャロームは外部からの良い状況からくる健全さを表していることです。
これも、とても重要な側面です。公正な補償を得、安全な場所に住み、また、安全に旅をすることもです。私たちは、肉体を持って生きているが故に、神が私たちに委ねた人生の肉体的な側面を無視してはなりません。
しかし、シャロームはそれ以上に、より深くて豊かな意味を持ちます。使徒パウロ(シャウル・ハシャリア)は、第二テサロニケ人への手紙において、このように締めくくります。
「どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」
2テサロニケ 3:16
より深い意味において、ここで見る平和とは、有利な外的状況からくるシャロームではないことに注目してください。使徒パウロが指摘するように、それは「どんな場合にも」存在し、その源は主ご自身です。本当のシャロームは、私たちの周りで起こっていることに左右されません。外側に問題があるとしても、私たちは神と神の忠実さに信頼することができます。それは、私たちの人生の土台となるのです。その揺るぎない信頼が錨となり、様々な試練や挑戦がくるときも、私たちの内側がシャロームによって支配されるのです。
現代のヘブル語においても、イスラエル人がお互いに挨拶する際、「マ・シュロムカ?」、「お元気ですか?」と聞きますが、それは正確には、「あなたの健全さはいかがですか?」または「あなたのシャロームはいかがですか?」という意味です。
その本来の意味において、その質問は、単に状況や外部的に起こっていることに関する質問ではありません。それは、相手の内面的な状態に関する質問です。その人の内側の健康と健全さについてです。多くの場合、人々の外面は全て上手くいっているように見えますが、ー仕事もあり、経済的に安定し、家族もいてー誰にも見えない内なる不安、罪悪感、内面の葛藤に苛まれているのです。
イェシュア(イエス)はユダヤ人のメシアとして、その完全な意味をもってこのい言葉を使いました。復活された後、イェシュアは弟子たちに現れ、このように話されました。
…イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。 ルカ 24:36 (新共同訳)
ヘブル語で、それはシャローム・ラヘムです。それは、イェシュアの口から出た、単なるさりげない挨拶の言葉ではありませんでした。「シャローム」と彼らを祝福した際、イェシュアは彼らに内なる平安と健全さ、そして完全さの祝福を授けたのです。そして、心に根付いたとき、その祝福は人生の全ての部分を形作ります。
それは、シャロームのより深い意味を示しています。それが外的状況から始まる平和でもなく、外側からくるものでもないということをです。むしろ、シャロームは内側からあふれ出るものですし、神に強く結びついている心から来るものであり、私たちの周りの世界を変えるものです。
「シャバット・シャローム」ーシャバットの安息

毎週金曜日の夜、世界中のユダヤ人の家族は、「シャバット・シャローム」とお互いに挨拶し合います。私たちは、シャロームのより深い意味を理解しているので、神の「安息日を守る」と命じていることも理解できるはずです。シャバットという言葉は、「止める」また「休む」という意味のヘブル語の動詞からきます。神は、私たちが毎週休息し、回復される必要があることを知っておられました。それは、神のためではなく、私たちのためでした。安息日は、私たちの健全さを回復するためにあります。心身ともに、精神と肉体においてです。そのためには、私たちは休憩する必要があります。ユダヤ人の視点からすると、この理解はとても重要なことです。この地上において、私たちは肉体の中で生きています。そのため、私たちは知恵を持ち、意図的にそのニーズに気を配る必要があるのです。
私は、東ヨーロッパの小さな国であるラトビアのユダヤ人の家庭で育ちました。子供の頃から安息日は、いつも私たちにとって特別なものでした。毎週金曜日の夜、家族全員が一緒に集まりました。私たちは夕食の準備をし、食卓を整え、ろうそくを灯し、安息日を迎えました。それは、一致と喜びの時間でした。私たちは、食事を共に分かち合い、歌い、会話をし、物語を語り、単純にお互いの存在を楽しんだのです。夕食後の時間はただ遊んだり、笑ったりしました。時間がゆっくりと流れ、私たちの心は温かさで満ち足り、心身ともにゆっくり休むことができました。
ユダヤ人ではない子どもたちが、よく私たちの集まりに参加したがっていたことを思い出します。彼らは、ユダヤ人の伝統自体ではなく、その雰囲気に惹かれたのです。平和、受容、愛、そして再生です。安息日は、毎日の慌ただしさの中、一度立ち止まり、深呼吸をし、休憩し、回復される時です。それは、一息ついて休息し、シャロームに入るための神からの毎週の招きであり、肉体面でも感情面でも健全さを回復される時です。
エルサレムの平和のために祈る

聖書において、エルサレムの平和のために祈るように私たちが召されているということは、単に戦争の終息、または、何らかの政治的停戦のために祈ることを勧めているだけではないのです。それも良いことで重要なことですが、神は、エルサレムが神に与えられた目的を果たせるために祈るように召しているのです。それは、この町の内部が回復され、霊的に再生し、福音がそこに住む全ての人ーユダヤ人、アラブ人、そして世界中から集まる人々ーに届くように求める祈りですし、平和の君である、メシアの再臨を願う祈りでもあります。
それは実に、神の御国が完全に訪れることを求める祈りです。その時、王であるメシアのご臨在から注がれる、内なるシャロームによって毎日の現実が変えられるのです。
イェシュアが最初に降臨された際、御使いはこのように宣言しました。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」ルカ 2:14 二千年前、御使いたちの言葉は、直ぐに全ての戦が終わるとは意味しませんでした。彼らは、人類とご自身の間に和解をもたらすために、人の形をもって神ご自身が地上に訪れたことを喜んだのです。そして今日、イェシュアが成された御業によって、愛と希望と平和のメッセージである福音が広まり続け、主のシャロームが世界中の人々の心を満たしているのです。
イェシュアは、このように述べています。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ 5:9)
平和ををつくる人は、政治的指導者だけではありません。それは、私とあなたのように、福音のメッセージを内側に持ち、それを人々に分かち合う人々のことです。彼らは世界において、神のシャロームを流し出す管となります。今日でも、それは私たちに対する神の御心です。このような世界中に内側から流れ出る、内面の平安の実を今日にも見るのです。イスラエルの地でイェシュアを信じるユダヤ人たちは、メシアの愛によって、イェシュアを信じるアラブ人たちとお互いに尊敬し、愛し合うことを学んでいます。ここ日本においても、私はイラン出身の友がいます。私たちは政治的な解決を待たずに、イェシュアの愛によって、今からお互いを愛し合うことを学んでいるのです。
私の祈りは、「平和をつくる者は幸いです。」というメシアの言葉が、私たちの目の前に、常に置かれることです。愛と平和のメッセージである福音を延べ伝えるというイェシュアの教えが、いつも私たちの優先事項のトップにありますように。メシアであるイェシュアによって、私たちは神や人々と平和に生きることができる、と福音は宣言します。信者たちのコミュニティにおいて、私たちがメシアの愛の中で生きることができることが私の祈りです。そして、その結果、イェシュアの愛が、まだイェシュアを知らない外部の人々にあふれ出るようにです。
イェシュアが教えた「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」という祈りの通りに、イェシュアが再臨する日が来ます。そして、その際には、イェシュアは王として来られるのです。
それから、イェシュアはご自身の平和の御国を確立します。それは、シャロームが個人に内住するだけではなく、国々、社会、また全被造物を変える御国です。
イザヤは、平和の君、サー・シャロームであるイェシュアがもたらす、真のシャロームの力強い描写をしています。
「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」
(イザヤ書 2章4節)
イェシュアの御国は、目に見え、実体があるものであり、永遠のものです。それは、今日も私たちの召しに忠実であり続ける中、私たちが向かっている究極の希望です。いつかシャロームが地上を覆い、メシアがエルサレムから王として全てを支配されるその将来を見据えつつ、私たちは今を生き、仕えています。
最後に
シャロームは、単に戦争がないとしての「平和」ではありません。それは、神から来る完全さ、健全さ、内面の健康を意味します。
シャバット・シャロームは、「良いシャバットを迎えてください」という単なる挨拶ではなく、神のご臨在から流れる、神の安息、回復、再生に入るための招きです。
そして、エルサレムの平和のために祈るということは、単に停戦を求めることではありません。それは、ご自分の御国を確立し、全地に真の平和と正義をもたらす、シャロームの君の再臨の希望と切望を表します。
最後に、シャロームは神を完全に信頼する心の状態を表しています。そして、その内なる源から、一人の人生だけでなく、国全体を変えることができる平安が流れ出るのです。
