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地上における天の型の象徴

  • Writer:  ダビッド  トゥルーベック
    ダビッド トゥルーベック
  • 14 hours ago
  • 14 min read

今日の記事において、神の幕屋に見るそれぞれの象徴について探っていきたいと思います。幕屋とは、人々が設営し、解体し、持ち運んだ、移動可能な仮設の礼拝所です。私が幕屋に特に注目したのは、それが人間ではなく神によって設計されたという事実です。対照的に、ソロモンの神殿は幕屋の様式に基づいていましたが、ソロモンは多くの点を変えました。例えば、幕屋に一つしかないものがあった場合、ソロモンはしばしばそれを七つも作りました。彼が「ああ、燭台か?いい考えだ。七つ作ろう!」と言ったのが目に浮かびます。あらゆるものがさらに進化し、より大きく、より精巧なものになりました。

 

しかし幕屋そのものは神の具体的な指示通りに建てられました。あらゆる部分の細部についての指示は、神から直接与えられたものだったのです。

 

「幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。」(出エジプト記 25章9節 新改訳2003年)

 

これに続く出エジプト記25章から31章では、神がシナイ山でモーセに示された幕屋の詳細な設計図を見ることができます。そして、これが重要な点ですが、その幕屋のあらゆる部分の設計図は、神から直接モーセに示されたということです。この点が、幕屋の象徴を理解することが私たちにとって非常に重要だ、と私が考える主な理由の一つです。この驚くべき建造物を、新約聖書を通して見ることで、私たちは神の知恵への理解を深め、私たちの霊的な歩みを豊かにすることができるのです。

 

もう一つ強調すべき重要な点は、私たちが新しい教義や神学を作り出そうとしているのではないということです。むしろ、私たちは新約聖書の教えを通して、タナハ(旧約聖書)の古代の象徴を理解しようと努めているのです。それを通して、私たちの霊的生活は豊かになるのです。

幕屋の目的は何だったのでしょうか?

私たちが答えなければならない最初の、そして最も重要な質問は、その目的は何だったのか、また、幕屋に込められた大きな考えは何だったのかということです。

 

幕屋には一つの中心的な目的がありましたが、犠牲を捧げることが主な目当ではありませんでした。犠牲を捧げることは、その偉大な目的を達成するための単なる手段に過ぎませんでした。その目的は、神が幕屋の建設について指示を与え始める出エジプト記25章8節に明確に述べられています。

「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(出エジプト記 25:8 新改訳2003年)

 

これがその核心なのです。幕屋はイスラエルの十二部族すべての陣営の、まさに中心に置かれました。その目的は単純でした。神はご自分の民の只中に住みたいと願っておられたのです。彼らと共にいることが神の願いでした。しかし、神は隔たりなくしては、彼らと共に住むことはできませんでした。神の聖さが彼らを焼き尽くしてしまうからです。だからこそ幕屋は、建造物、境界、そしていけにえの捧げものを伴って建てられなければなりませんでした。それが、聖なる神が罪深い民を滅ぼすことなく彼らの間に住む唯一の方法だったのです。神の願いは、単に民に律法を与えて従わせることではありませんでした。神のより深い願いは交わりでした。しかし、民が律法全体を守り、真の聖さを得ることができなかったため、神は彼らの間に住む道を設けられたのです。だからこそ幕屋が建てられたのです。幕屋を通して、そして絶え間ないいけにえの捧げものを通して、神はたとえ限られた一時的な方法であっても、ご自分の民と共におられる道を設けられました。

 

出エジプト記29章45節で、神はこう言っています。

「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。」(出エジプト記 29:45 新改訳2003年)

 

この約束は、神がモーセに幕屋の建設に関する詳細な指示を与えたのと同じ箇所に見ます。神が「わたしは彼らの中に住む」と言われた時、神はご自身のご臨在をこの神聖な空間に直接結び付けています。そしてまさにその通りになりました。幕屋が完成すると、神の栄光の雲が降りてきて、幕屋を満たしたのです。

では、新約聖書に進みましょう。マタイによる福音書1章23節には、これらすべてがイエスを指し示していることが記されています。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」

(マタイの福音書 1:23 新改訳2003年)

 

タナハ(旧約聖書)ではその象徴が、新約聖書ではその成就が見られます。イエスを通して、神はご自身と人類との間の壊れた関係を回復されたのです。幕屋はしばらくの間、その関係を可能にしましたが、それは限定的で一時的なものであり、より偉大なものの影に過ぎませんでした。イエスは真の、より優れた幕屋であり、その影の成就です。神はもはや天幕に住んでおられません。神はキリストという人となられ、私たちのもとに来られたのです。そして今日、聖霊を通して、神はその民の心に住んでおられます。

しかし、この物語はここで終わりません。

神の民と共に住みたいという神の願いがさらに深く成就するのは、まだこれからです。それはイエスの再臨と万物の回復によってもたらされるのです。

聖書の最後の書である黙示録21章3節にはこう記されています。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、...」(ヨハネの黙示録 21:3 新改訳2003年)

 

荒野の幕屋から、私たちの間を歩まれるイエス、私たちの内に住まわれる聖霊、そして最後に、新しいエルサレムで私たちと共に住まわれる神に至るまで、神の心は常に、ご自分の民と共におられるということでした。

では、幕屋の中にはどのようなものがあったのでしょうか?


契約の箱 (אָרוֹן — アロン )

契約の箱は二つの部分から成っていました。下半分は木製の容器で、上半分は「贖いのふた」として知られる純金の蓋でした。まず下半分から始めましょう。

出エジプト記25章10から22節には、契約の箱の建造方法についての詳細な指示が記されています。また、契約の箱が空ではなかったことも分かっています。聖書は、その箱の中に十戒を記した二枚の石板(申命記10:1-5)、芽をふいたアロンの杖(民数記17:1-11)、そしてマナの壺(出エジプト記16:33-34)が納められていたと記しています。

これらの品々はそれぞれ、深い象徴的な意味を持っています。

マナは、命のパンであるイエスを象徴しています。イエスご自身がこう言われました。

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。」(ヨハネの福音書 6:51 新改訳2003年)

 

イスラエル人が荒野で日々神に頼って肉体の糧を得ていたように、今日の信者も人生の旅路を通して、霊的にも肉体的にも日々神に頼るよう求められています。

十戒の石板

マタイによる福音書 5章17節で、イエスはこう言っています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイの福音書 5:17 新改訳2003年)

 

イエスは律法を完璧に生きることによって律法を成就されたのです。イエスは弟子たちに、神の国の基準に従って生きるよう呼びかけます。それは、自分自身の力ではなく、聖霊と、イエスにあって私たちが持つ赦しを通してです。私たちが不十分なとき、イエスは恵みによって律法を完成させるのです。

芽をふいたアロンの杖

民数記16章のコラの反逆の後、神はモーセに、イスラエルの十二部族のそれぞれの指導者から、レビ族のアロンの杖も含めて杖を一本ずつ取り、それを天幕の中に一晩置くように命じました。翌日、アロンの杖は芽をふき、花を咲かせ、ア​​ーモンドの実をつけましたが、他の杖は枯れて命を失っていました。

これは、神がアロンとその子孫を祭司職に選んだことを示す超自然的なしるしでした。アロンの杖は枯れていましたが、生き返り、実を結びました。同じように、イエスは亡くなり、埋葬され、そして三日目に復活しました。この奇跡は、アロンの召命を確証するだけでなく、復活の力と真の大祭司、すなわちメシアであるイエスの預言的な姿を私たちに示しています。



贖いのふた (כַּפֹּרֶת — カポレット)


贖いのふたは契約の箱の中でも、最も重要な部分でした。年に一度、贖罪の日に、大祭司は至聖所に入り、イスラエルの民のために贖罪を行うために贖いのふたに血を注ぎかけました。贖いのふたの上にある二つのケルビムの間には、何もない空間がありました。人間の作った宗教では、その空間は偶像で埋められます。しかし、神はそこに何も置いてはならないと命じました。いかなる像も神を表すことはできなかったからです。

しかし、その「何もない空間」にイエス、イェシュアが来られ、こう言われました。

「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネの福音書 14:9 新改訳2003年)

 

目に見えない神が目に見えるようになったのです。

私たちが特に注意を払うべきもう一つの重要な点は、いけにえです。大祭司は年に一度だけ、そして血を捧げることによってのみ、至聖所に入ることができました。その血が贖罪となり、赦しをもたらしました。同じように、イェシュアも一度限りご自身を捧げられました。その血――完全で最後の犠牲――は、彼を信じるすべての者を聖くするのです。

香の壇 (מִזְבַּח הַקְּטֹרֶתーミズベアック ハケトレス)

少し時間を取って、香の壇の象徴的な意味について考えてみましょう。幕屋において、この壇は香り高い供え物が捧げられる場所でした。幕屋の中で最も神聖な場所である至聖所は、厚い幕で他の部分から隔てられていました。そこには大祭司だけが、年に一度だけ入ることができました。

特に注目すべきことは、香の壇の香りだけが幕を越えることができたということです。いかなる物理的な障壁もその香りを遮ることはできませんでした。新約聖書から、香は私たちの祈りを象徴していることが分かります。

「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」

(ヨハネの黙示録 5:8 新改訳2003年)

 

今日、私たちは幕が裂かれた時代に生きています。イエシュアが道を開いてくださったからです。私たちは依然として限られた人間の肉体に生きていますが、私たちの祈りには制限がありません。香の甘い香りのように、祈りは自由に立ち上り、神の御前に直接届くのです。

 

これは、私たちの祈りが甘い香りのように、主に喜ばれることを美しく思い出させてくれます。祈りには力があり、神の御心に従って祈るなら、この暗く壊れた世界に真の変化をもたらすことができるのです。


祭壇(מִזְבֵּחַーミズベアック)

神の聖なるご臨在は、贖罪なしには罪深い人々の間にとどまることができなかったため、いけにえは不可欠でした。イエスは神の子羊であり、イスラエルと全世界のために、一度限りご自身を捧げられたのです。

特に興味深いことは、先ほど述べた、香の壇に捧げられた神への祈りを表す甘い香りの香が、主祭壇から取った炭を使って燃やされたその方法です。これらの炭は、まさに犠牲にされた動物の血が触れた炭でした。これは力強い描写です。私たちの祈りは、究極の犠牲のいけにえであるイエスの犠牲を通して神の前に捧げられるのです。



供えのパン(לֶחֶם פָּנִים — レヘム・パニム)

 

供えのパン(ヘブライ語でレヘム・パニム)は、幕屋の机の上に常に置かれていた特別なパンでした。それは、後に神殿にも置かれるようになりました。レビ記 24章5から7節には、このパンの作り方とそれらを配置する方法が記されています。

 

「あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。それを主の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。

それぞれの並びに純粋な乳香を添え、主への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。」(レビ記 24:5-7 新改訳2003年)

 

このパンはおそらく毎週金曜日に準備され、安息日ごと幕屋の中に、六個ずつ二並びに置かれました。それは毎週補充され、祭司たちは聖所で新鮮なパンを食べることができました。古代中東において、そして今日でも、食事を共にすることは、交わりと友情の最も親密な表現の一つです。供えのパンは、私たちが神とどのような関係を持つように招かれているのかを示しています。神は単なる遠い概念や何らかの力ではなく、イエス・キリストを通して私たちが関係を持つことができ、実在する、個人的な神なのです。


燭台(מְנוֹרָה — メノーラー)

 

幕屋、つまり窓のない暗い天幕では、大きなメノーラーが唯一の光源でした。この事実は、その象徴的な意味を見事に表しています。それは、神の光と聖さが、暗く罪深い世界に差し込むことの象徴です。

 

ユダヤの伝統では、メノーラーはイスラエルの人々に、預言者イザヤが述べたように「諸国の光」となるよう召されていることを思い出させるのです。

 

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。」(イザヤ書 42:6 新改訳2003年)

 

暗い幕屋では、メノーラーが唯一の光源でした。それは、神の光が暗い世界に入り、イスラエルが諸国民の光となるよう召されたことを象徴していました。

 

イエシュア(イエス)はマタイによる福音書5章でこの召命を認め、イェシュアの弟子たちは神の光を輝かせるよう召されていると教えました。

 

「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイの福音書 5:14-16 新改訳2003年)

 

ヨハネ8章には、イエシュアが神殿に立ってこう宣言したと書かれています。

 

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書 8:12 新改訳2003年)

 

ここでイエシュアは、単に光を反射する器としてではなく、命を与える光の源としてご自身を示されました。今、それを新約聖書と照らし合わせて見るならば、幕屋のメノーラーは、来るべきメシア――真の光の源――と、主の弟子として世に主の証人となるという私たちの召命を予見するものであったことがはっきりと分かります。

 

この記事の中で、最後に取り上げたいことは、洗盤についてです。



洗盤(כִּיּוֹר — キヨル)

 

幕屋において、そして後に神殿においても、キヨルは祭司たちが儀式の清めに用いた青銅製の水盤でした。会見の天幕に入る前、あるいはいけにえを捧げるために祭壇に近づく前に、祭司たちは洗盤で手足を洗うことが義務付けられていました。これは出エジプト記30章17節から21節の戒めです。

 

興味深いことに、タルムード・バブリー、ペサヒム57a、そしてミドラシュ・シェモト・ラバ38章8節によると、洗盤はイスラエルの女性たちが寄進した青銅の鏡で作られました。これらの鏡はもともとエジプトの隣人たちの所有物であり、女性たちがエジプトを離れる際に持ち出したものでした。

 

洗盤は、純粋さと霊的な清めの大切さを教えてくれます。しかし、イスラエル、そして世界が真に必要としている清めは、水で洗うことから来るのではありません。それは、イエス(イェシュア)が十字架上で私たちのためにしてくださったことを通して与えられるものです。洗盤は、私たちの罪のためにイエスの犠牲を通して、信仰によって得られる完全な清めを指し示しています。

 

新約聖書が鏡を神の御言葉に例えているのは興味深いことです。神の御言葉は私たちに真理を突きつけ、私たちの真の姿を明らかにし、霊的な成長の機会を与えてくれます。

 

ヤコブ1章23節から25節にはこうあります。

 

「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(ヤコブの手紙 1:23-25 新改訳2003年)

 

ですから、洗盤は、イエスを通して私たちが受ける一度限りの清めと、日々、神の御言葉によって、私たちを明らかにし、清め、変えていただくために、私たちの心に留めておくことの両方を象徴していると言えるでしょう。

ご覧のとおり、幕屋は私たちの霊的な歩みについて多くのことを教えてくれます。このユニークな移動式の聖所は、神をより深く理解するのに役立つ重要な真理を明らかにしています。この記事が、幕屋の象徴に込められた深い意味をはっきりと理解し、神の知恵においてさらに成長するための助けになれば幸いです。

 
 
 

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