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  • Writer's picture ダビッド トゥルーベック

多くの巡礼者が見落としているエルサレムで最もパワフルな遺跡


エルサレムで最も素晴らしい場所のひとつは、悲しいことに多くの巡礼者が見落としている場所でもあります。毎年、何百万人もの巡礼者がこの場所を通過しています。しかし、最初のメシアニック・シナゴーグだったかもしれない建物に実際に立っても、そのことに気づく人は1%にも満たないのではないでしょうか。


最初のユダヤ人信者は、自分たちのシナゴーグの必要性を感じていませんでした。彼らは皆、毎週聖書の朗読を聞くことができる伝統的なシナゴーグに通い続け、週の初めの日(イスラエルでは平日である日曜日ではなく、土曜日の夕方と考えられていた)に集会を開いたのです。これらの集会は家庭で行われ、また神殿の中庭でも毎日開かれました(使徒2:46)。


しかし、紀元60年代になると迫害が激しくなりました。ヤコブはエルサレムで最も尊敬されていたユダヤ人の一人であったにもかかわらず、62年にパリサイ派の主導する陰謀によって殉教したと考えられています。ヘブル書は、迫害に直面していたユダヤ人信者に対して堅く立つことを奨励しています(ヘブライ12:1-4)。


メシアニック・ジュー達がエルサレムから逃亡

そして60年代後半、ローマからの独立を目指すユダヤ教の一派、熱心党が反乱を起こしました。ローマ軍がエルサレムを包囲し、壊滅的な打撃を与える準備を進めていたのです。メシアニック・ジューは、イェシュアが「エルサレムは滅びる」と言い、逃げるよう指示されたことを思い出しました。

「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その荒廃が近いことを知るだろう。そのとき、ユダヤにいる者は山に逃げ、町にいる者は逃げ、田舎にいる者は町に入らないようにしなさい。」 (ルカ21:20-21)(マタイ24:16)

メシアニック・ジュー達はヨルダン川を渡って逃げました。そして、エルサレムは破壊され、熱心党が徹底的に敗北した後、メシアニック・ジュー達の共同体はエルサレムに戻ってきたのです。 驚くべき発見


1948年、イスラエル独立戦争中、ダビデ王の墓の遺跡と伝統的なアッパールーム(上座の間)遺跡の近くに砲弾が着弾、爆発しました。1951年にイスラエルの考古学者ヤコブ・ピンカーフェルドは、その修復を任されることになりました。その際、現在の床から1メートル下にローマ時代の床を発見したのです。更に、奥まった小部屋や、物などを置くために作られた壁のくぼみが発見されました。ベネディクト会の修道士で、聖書学者、考古学者として有名なバルギル・ピクスナーは、こう書いています。

「床から同じような高さの壁のくぼみは、古代のシナゴーグで発見されており、トーラーの巻物を入れる箱(アーク)として使われていたと推定される。」

つまり、この部屋、上座の間は、実は、古代のシナゴーグだと主張したのです。問題は、ここはもともとシナゴーグだったのか、そうでないとしたらいつからシナゴーグになったのか、ということです。ある人は、ローマのティトス将軍が70年にこの地を征服した時、この地は徹底的な破壊をまぬがれたと主張します。しかし、街全体が破壊されたことは確実に分かっているので、70年の戦争後にシナゴーグに改築された可能性が高いのです。そして40年前のイェシュアの時代には、ここはシナゴーグではなく、単なる家であったことが分かっています。


ピンカーフェルドは、これが確かにシナゴーグであったことを認めました。東向きの教会とは違い、この建物は神殿の方、あるいはかつて神殿があった場所に向いていました。ピンカーフェルドの言う通り、これはシナゴーグなのです。しかし、教会は4世紀後半まで東を向いていなかったので、この場所が教会であるはずがないという結論は、ピンカーフェルドの早合点でした。 神殿に面していない、しかし... ピクスナーは、ピンカーフェルドがこの建物を神殿に面していると仮定したことにも誤りがあったと主張しています。当たり前の仮定ですが、実際に測ってみると、発見された壁のくぼみや奥の小部屋の角度は少しずれているのです。神殿に面しているのではなく、もっと北西の、最も興味深い場所に面しているのです。


ちょっと考えてみてください。あなたがイェシュアの信者であるユダヤ人だとします。あなたはエルサレムに戻ってきましたが、街は廃墟と化していました。西暦74年、神殿は無くなっていました。このことの意味を理解してください。神殿はユダヤ人の生活と宗教の中心でした。1世紀のメシアニック・ユダヤ人の生活においても、神殿は非常に重要なものだったのです。信者たちは、礼拝、教え、アウトリーチのためにそこに集まっていました(使徒3-4、5:25)。これは大きな打撃であったに違いないのです。さらに、第二神殿は当時最も印象的な建造物だったのです。それは驚嘆と不思議であったのに、今は廃墟と化しているのです。


ヘブル人への手紙の著者は、「時代遅れのものは、やがて消え去る」と述べて、このことを警告しています。(神学者たちは、この著者が旧約全体を指していると誤解していましたが、実際は、「犠牲の制度」に言及しているものでした。) 伝統的なシナゴーグから追い出されるという自らに課した呪い


しかし、ユダヤ人のイェシュア信者が戻ってきた今、彼らを地元のシナゴーグから追い出す計画が立てられました。ガマリエル二世が率いるパリサイ派は、わずか数年の間に、一日に三回祈るアミダに「祝福」を加え、すべてのメシアニック・ジューに異端者のレッテルを貼るようになったのです。このメシアニック・ジューはこの祈りをすることができず、おそらく心を痛めてシナゴーグを去ったのでしょう。ピクスナーは、彼らが上座の間・アッパールーム(正確にはその下の部屋)をメシアニック・ジュー達の最初のシナゴーグにしたと考えています。 最も素晴らしい方向付け

しかし、トーラーの巻物を納める為のくぼみの向きを決めるとき、かつての神殿が建っていた場所には向けないという結論に達しました。そのくぼみの向きは、かつて神殿があった場所ではなく、その代わりになる場所に向けることにしたのです。

実際に、メシニック・シナゴーグの向きは、現在の聖墳墓教会に向かっており、シナゴーグが作られた当時に、イェシュアの墓とゴルゴダの十字架刑の場所と信じられていた場所に向かっていたのです。


なんという力強さでしょう! 犠牲と赦しの源である神殿を持たない彼らは、永遠の赦しと贖いの新しい源はゴルゴダであると正しく見抜いたのです。しかし、十字架にかけられ「終わった」という言葉をイェシュアが発した場所を指すべきか、それとも贖いの証しがある復活の場所を指すべきか?両方はどうでしょうか。十字架にかけられた場所に埋葬されたというのは。


イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。(ヨハネ19:41)


上段の間・アッパールームは、聖墳墓教会と園の墓の両方を指しており、それらは考古学者によれば、イェシュアが十字架につけられて葬られた可能性が最も高い二つの場所なのです。


さらなる証拠

この建物がメシアニック・ジュー専用の最初のユダヤ教のシナゴーグであることを証明する必要があるとしたら、どうでしょう。その場合、ピンカーフェルドが後に、階の床下から発見した落書きがその証拠となります。この落書きは後になってから公表されたもので、この建物が1世紀に建てられたと示しています。

ある落書きには、"征服、救世主、慈悲 "と訳すことができるギリシャ語の頭文字が書かれています。もう一つの落書きには、「イェシュアよ、私が生きられますように、絶対的な主権を持っておられる主よ。」と訳すことのできる一文があります。


ギリシャ語で書かれているのは、その後、135年にすべてのユダヤ人が出入り禁止になった後、異邦人キリスト教徒に使われた証拠です。これは、ユダヤ人の最後の反乱に対応するためでした。ローマ皇帝ハドリアヌスは、すべてのユダヤ人を追放し、エルサレムを異教徒の都市に変えてしまったのです。彼は、イェシュアが十字架にかけられた場所にヴィーナスの神殿を建てることさえしたのです。


しかし、この異邦人たちは、どうしてここがアッパールームであり、最初のメシアニック・シナゴーグの場所であると確信したのでしょうか。ハドリアヌスが135年にすべてのユダヤ人をエルサレムから追放したのですが、ハドリアヌスの時代からユダヤ人の血を引かないキリスト教徒はエルサレムに住むことができ、実際に住んでいたのです。エウセビオスは、エルサレムの異邦人司教のリストも残しています。そして、それは代々口伝で受け継がれてきました。


ローマ帝国によるエルサレム征服後、追放されていたメシアニック・ジュー達が自分達で、最初のメシアニック・シナゴーグを上座部跡に建て、それがイェシュアが処刑され復活したゴルゴダの方角を向いていた、とする説を裏付ける証拠があるのです。


しかしここではっきり申し上げておきたいのですが、これは私が信じている一説に過ぎず、全ての疑問が晴れて完全な形で証明された『事実』ではない、という点です。

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